The Noon Witch 〜あるいは乙女心と恐怖のマドレーヌ〜
「ねえ、ニア?」 「ん?なんだ?」 「『榊と水嶋なら・・・・』、いくらだったの?」 ―― 残暑厳しい9月の空気が一瞬、冥加のマエストロフィールドに化けた。 二学期の授業が始まってすぐというのはとかく気分が緩みがちなものだ。 そもそも日本で言う9月は秋口とはいえまだ暑いし、直前まで毎日自由を謳歌していたものをいきなり授業の最前線に突っ込まれても、なかなかやる気が起きるものでもない。 加えて授業が早く終わる水曜日ともなればそのテンションの落ちぶりは顕著で。 かなでは夏の大会を経て恋人になった水嶋悠人と練習するという計画があったのだけれど、たまたま悠人の神社で急な手伝いが入ったという事でキャンセルされてしまったのだ。 誰かと一緒に遊びにいく、という手もあったにはあったが、先の理由でかなでとニアはとっとと菩提樹寮へ帰る方を選んでいた。 というわけで、折角自由気ままな午後である。 得意のお菓子作りの腕を振るおうとキッチンを借りたかなでと、その横のダイニングでぼんやりと雑誌を読んでいるニアというまるで熟年夫婦のような図ができあがった。 夏の大会中のイレギュラーな滞在メンバーがいた頃ならこんな場面には絶対誰かが乱入してきただろうが、今は元々少なかった寮生のみ、しかも水曜の午後ともなれば他に誰もいず。 いたって静かで穏やかな午後を過ごしていた ―― はずだった。 かなでが冒頭の問いを投げかけるまでは。 一瞬の幻のマエストロフィールドもどきから立ち直ったニアは、何食わぬ顔をして雑誌をめくる。 「何の事だい?我が友。」 カチャカチャッと軽快な音でボールをかき混ぜていたかなでの泡立て器がピタッと止まる。 「ニア。」 「ん?」 「・・・・律くんは5枚セットで5千円は固い、んだっけ?」 「・・・・・・・・・・」 カチャカチャカチャッ 沈黙に不釣り合いに軽やかな泡立て器の音だけが響く。 今日はマドレーヌを作ると言っていたから、只今、メレンゲを泡立て中なのだろう。 カチャカチャカチャッ 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「缶詰生活は抜け出せたよね?」 にっこり。 そんな効果音が付きそうな程爽やかなかなでの笑顔に、ニアは口元を引きつらせた。 「・・・・完全に榊大地の悪影響だな。」 「何か言った?」 「・・・・いや。」 目線を逸らしたのは引き合いにだした某副部長の幻を見た気がしたからだ。 正直、幻のマエストロフィールドは抜け出したが空気が寒い。 「それで?」 「すまないが、その笑顔をやめてくれないか。怒っているなら怒っているらしくしてほしい。」 「怒ってる?」 やむなくギブアップを宣言したニアに対して、かなでは意外な事でも言われたかのように小さく首をかしげた。 その反応にニアもおや、と思う。 「怒ってるんじゃないのか?」 「え?うーん、どうかな。」 「?」 「えっとね、興味があったの。」 そう言いながらかなでは止まっていた泡立てを再開した。 カチャカチャ 「ハルくんって1年だから今年入学したてでしょ?」 「ああ。」 カチャカチャカチャッ 「そうすると、夏休み前で3ヶ月ぐらいしかたってないのに、写真が売れるんだーって。」 「あ、ああ。」 カシャカシャカシャカシャカシャッ 「誰が買うのかな、とか」 カシャカシャカシャカシャカシャカシャッ 「どんな表情の写真なのか、とか」 カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャッ 「それ買った子がどんな風に見つめるのかな、とか。」 カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャッッッッ 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 ・・・・かなでさん、そのメレンゲはもう泡立てすぎではないでしょうか、とは口が裂けても言えなかった。 怒っているかわからない、とかなでは言ったけれど。 (・・・・・・・・・ものすごく怒ってるじゃないかっ!!) 報道部屈指の鉄の心臓を持ち、あの冥加玲二にさえ一歩も引けをとらなかった支倉仁亜は初めて悟った。 勝てない相手は、案外身近にいたらしい。 「・・・・小日向。」 「ん?」 「メレンゲ・・・・」 「あ、いけない。もう混ぜなくちゃ!」 電動ミキサー無しとは思えない程見事に角の立ったメレンゲを見て、かなではいつもと変わらぬ小動物的な動きで次の手順に移るためにキッチンへ引っ込む。 一瞬緩んだ空気にほっと冷や汗を拭いたのも束の間、ひょいっとかなでがキッチンから頭だけ覗かせた。 「それで?」 にっこり。 再び見えた恐ろしく爽やかな笑顔に、ニアは僅かに固まって・・・・それから観念したように両手を挙げて言った。 「わかった。水嶋の写真の販売先は君だけにしておくよ。」 「よろしい!」 高らかにそう言ったかなでの正真正銘の笑顔を前に、ニアは苦笑して深く深く心に刻み込んだのだった。 「・・・・大人しい奴ほど怒らせると怖い、か。」 〜 Fin 〜 |